病とともに生きるには

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こんにちは。2回目の相談になります。お忙しいところ申し訳ありませんと思います。

私は50代に入ってから一生付き合っていかなければならない病にかかってしまいました。
国指定難病の「潰瘍性大腸炎」。世間的に患者数の少ない「掌蹠角化症」皮膚科の病です。そして「緑内障」です。緑内障は手術をしました。が治療は継続中です。
この3つの病に罹る前は人生上沢山の苦労がありました。やっと落ち着いたと思ったら3つの病です。
何をどうもがいても完治する事はなくて一生、服薬、点眼、マッサージ、定期的検査と通院をしなければなりません。悪化すれば入院です。
最初は酷すぎる!何で私ばかり苦労が多いの!と思いましたがその時期も過ぎ、現在は気持ちを腐らせないでどの様に上手く一生病と付き合って行けばよいのかを考える様になりました。
区役所に行き難病の医療費助成の手続きは済ませました。全て大学病院に通院しなければならず時間もお金もかかります。
無駄遣いをしないように遊びに行きません。

心穏やかに生きて行きたいと思います。「何で自分ばっかり?」と病を恨む気持ちが100%無くなったかと言われればそうではありません。
何とか病と共存していくにはどのようにすれば良いのでしょうか?ご住職様、どうかアドバイスを頂けましたら幸いです。

釋悠水(管理者) 公開しました 2022年9月25日

1 僧侶回答

こんにちは。
前回に引き続き、ご質問ありがとうございます。
この度のご質問では難病であるとのことを伺いました。先ずは、どうぞご自愛いただければと存じます。

あなたの苦しんでおられる状況に私がどれほどのことを申し上げられるか、これは分かりません。それは、「病と共存していく」という方法が、私の考える方向性とあなたの方向性とどれくらい合致するかが分からないことに起因しているように思います。

大まかに分けて、私は二つの方向性があると思います。

一つは、一般的な方向性です。
「全て大学病院に通院しなければならず時間もお金もかかり」、「無駄遣いをしないように遊びに行きません」と仰っています。確かに、経済的事情があることではあるし、「遊び」(お金の出費が伴う)は状況が許さないかもしれません。ただ、「遊び」は必ずしも金銭の伴うものでもなく、心の「遊び」、これも「遊び」という生活に彩りを与えるものではないでしょうか。

私に限ってのことで、つくづく思うのですが、日常を丁寧に過ごすということは中々出来ているようで出来ていないと思っています。人の細やかな心遣いを落ち着いて受け止めたり、道路脇の綺麗な草花を美しく思う。これがスピードの出る車で、ドアから目的地まで行く、その途上は単なる通過点にしか過ぎない、こう考えると人も草花も路傍の何かになってしまう、もったいない時間の過ごし方になってしまうと思います。これは、決してあなたのことを言っているのではなく、私が私への自戒を込めてこう思っています。

難病であるがゆえに、そこに苦しむ御心境を察します。ただ、その生活の中に心の遊び、彩り、余裕のようなものを一日に1mmでも意識できると、人、ものへの見方が変わる、「病と」その他多くのものと「共存していく」という人生の幅の作り方ができるかと思います。

もう一つは、仏教的な方向性です。
自分が拠り所になっている人生を、仏様が拠り所になる人生へと転換される、これがその方向性です。これは、少しづつ本を読まれたり、法話を聞いたり、このようなやり取りなどを通してでないと見出すことが出来ません。その意味では即効性はありませんが、独りで「病と共存していく」はずの人生が、仏様とともに可能になっていくという意味で心強さを得られることになる、と思います。

また、物事の判断基準が自分が、自分の、自分で、自分こそという自分からという物事の見方から開放されていきます。そして、仏様の仰ったこと、仏教の道理の上に生きていくことが可能になります。「何で自分ばっかり?」との問は切実なものでしょう。しかし、仏教から言えば(現代医学に沿う見方でもありますが)いかなる病も様々な環境や遺伝上などの、特定が不可能なほどに複雑に入り組んだ因縁によって起こった(因縁生起、いわゆる縁起)のであると考えます。

ご存知かもしれませんが、仏様は人間の人生について超自然的な力を行使されるお方ではありません。ただ偏に物事には複雑な因縁によって結果が生まれるのだ、と教えられるのが仏教です。この意味では「何で自分」がという問いは答えが得られることはなく、むしろ自分は何を拠り所にして、どう生きるかを問うのが仏教です。あなたが「病と共存していく」方途を、仏教に得たいと思われるようでしたら、あなたのご縁のある宗旨の門をたたくことをお勧めします。

以上、二つの方向性をご案内しました。
あなたがいずれを選択されるかはお任せします。
どうぞお大事にお過ごしください。

~お礼のご返信~

釋悠水様
ご回答どうもありがとうございます。
2つのご回答を頂きまして嬉しい限りです。確かに一生続く病の為の通院、服薬のことばかり考えていたらとても気持ちにゆとりは生まれません。季節の花が咲いている事に気づく事や珍しい野鳥の鳴き声に耳を傾けてみるなど以前は普通にしていた事です。またそのような楽しい気持ちを持ちたいと思いました。
仏教と共に歩むという事ですが私の実家も嫁ぎ先も浄土真宗本願寺派なのです。そして今年に入ってから特にyoutubeで浄土真宗本願寺派の布教師さんのご法話をお聴聞させて頂く機会がふえました。ご法話は何故か私の心の琴線に触れ、時には涙してしまう事があります。ご法話の中には私と同じような気持ちを持つ方が登場したり、、そして阿弥陀様がいつもどのような時でも私を見ていてくださる。という布教師さんのお言葉をお聴聞させて頂くと少しづつですが手を合わせて無心で「南無阿弥陀仏」とお称えして気持ちが落ち着いていく事があることを経験しました。本も現在少しずつですが読ませて頂いております。

この度はどうもありがとうございました🙏

nero

~追記~
ご丁寧にご返信ありがとうございました。
回答がご参考になれば何よりです。
そうですか、同門でご聴聞されているのですね。お念仏の朋とご縁があることは嬉しい限りです。
これからもどうぞご聴聞とお念仏を大切にひぐらしをされてください。
また、ご質問ありましたらお寄せください。
お大事に。

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釋悠水

 

 

釋悠水(管理者) 公開しました 2022年9月25日

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