孤軍奮闘の虚しさの切り換え方

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釋悠水さま、こんにちは。
2度目の相談ですが、よろしくお願いします。

先週父の一周忌法要をお寺でしていただきました。
コロナ禍ということで参加者は父方の伯父伯母だけで、あとは母、妹家族、私の家族です。
この時、とても虚しいことがありました。
相談というより愚痴になります。

来ていた親戚の伯父たちはみんな高齢で、お客様でもあるし私は席に行って話をしていました。義父母と同居してきた私にとっては、若い頃から培ってきた普通の行いです。
しかし妹は「父方の親戚はどうも苦手で」と言い、母は「あんたが相手してくれて助かった」と誰も助け船に来てくれません。
たしか四十九日法要の時も同じでしたが、またまた孤軍奮闘です💧

でもその事は多少の苛立ちがあったものの役割だと割りきって過ごしました。
問題はその後で、母たちに「誰か一緒に話し相手に来てほしかった」と打ち明けたところからです。
伯母などは妹の名前は覚えていても私の名前を思い出せなかったり、母からも「親戚中から娘さん『達』がしっかりしてて安心だねと言われるよ」と聞かされたことが胸に引っ掛かったのです。
頑張っても知らん顔でいても同じ『娘達』で括られる立場、高齢とはいえ私を誰だか認識もされてない存在だったということをどう整理しても整理しきれません。
やるせなさでいっぱいになりました。
心が狭いですか?
でも納得がどうしてもできず、かといって誰にも愚痴ることもできず、トオチカに書き込んでいる次第です、申し訳ありません😢

どう割り切ったら楽に考えられるでしょうか。
このままでは父の亡き実家で集まるのも二度としたくない気持ちです。
何か気持ちの切り換え方のヒントを教えていただけないでしょうか?
よろしくお願いします。

釋悠水(管理者) 公開しました 2022年9月14日

1 僧侶回答

こんにちは。
お久しぶりです。

「相談というより愚痴」と仰っています。ご自身がおっしゃるように、内面的な葛藤を吐露するという意味では、一般的に言う「愚痴」ともいえるかもしれません。しかし、前回の相談の延長状、つまりお母さんに認められたいという感情に悩んでいることの続きとして今回のことを考えると、単に「心が狭い」か広いかの問題でないようにも読み取れます。

「多少の苛立ちがあったものの役割だと割りき」れたらお話は単純だったのでしょう。しかし、 お母さんを介して「伯母など」の親戚が「娘さん『達』がしっかり」しているね、と言われた。しかも、質問者さんの「名前を思い出せなかった」ぐらいの認識であった。あなたは、実質的な施主として、つまり一周忌の主催者(形式上はお母さんなのかもしれません)として「孤軍奮闘」した。独りで頑張っていた。

それなのに親戚は母親の方を向いていた。あなたはあくまで母親の『娘』であり、『娘達』二人のうちの一人に過ぎなかった。家族三人の中でも「孤軍」なのに、親戚の中でも認められていない。折角、責任感を背負って先頭を切って「役割」を果たそうとしたのに、誰もそのことに思いを致さないかのごとくである。「集まるのも二度としたくない気持ち」になるのも無理はありません。

私は、あなたが責任感を持って儀式を執行されたのは立派だったと思います。為すべき「役割」を為す。船頭が居なければ、一周忌の開催自体もおぼつかなかったことでしょう。おそらく、あなたの責任感と行動力を、お母さんも、妹さんもあまり思い及んでいないのでしょう。だから、あなたは「孤軍奮闘」せざるをえず、心細い思いをせざるを得なかった。その結果、「一緒に話し相手に来て」フォローしてほしかった、という吐露になった。けれども、お母さんと妹さんからは「役割」を分担する意向が感じられないから、「一緒に話し相手に来て」フォローしてほしかったという「打ち明け」話が思うように通じなかった。この意味で落胆が深い、ということなのでしょう。

繰り返しますが、私はあなたの「役割」を引き受ける姿勢を称賛します。

ただ、前回のところでお母さんを喜ばせようとして心が疲れている、というご相談がありました。この関連で考えると、親戚から認められなかったというところもあるでしょうが、一番はお母さん或いは妹さんという身内と心通じ合わせることが出来ない、という根本的な悩みが前回と今回の根底にあるのだと思います。やはり、何かをすることで認めてもらう、心を向けてもらう、愛してもらうというギブアンドテイクに必死になっているように思うのです。もう少し言えば、ギブに傾注してしまっている、ということです。

前回に申しましたが、認めてもらえるのは然るべき人にしか認めてもらえないということ(認めてくれない人に期待しないほうがいいということ)。そして、人間と人間の間には、ギブアンドテイクという利得関係ではなく、何をせずとも、何も持っていなくても認めて貰える関係がある、ということを知ることです。そこにしか落ち着いた安心はありません。本来落ち着けないところに落ち着くことは出来ないのだ、ということを知るべきです。そして、本来落ち着ける場所はご主人との家庭にあるのか、仏様の掌にあるのかを確かめていく営みに今後の鍵はあると思います。

このため、「気持ちの切り換え方のヒント」は、前回指摘のことをもう一度丁寧に吟味していただきつつ、ご自身の心の居場所を確かめることにあると思います。

次回は3回忌になるでしょう。
いい機会ですから、妹さんに主催を振って見るのもいいのではないでしょうか。もしかしたら、妹さんも「役割」を意識できるようになるかもしれません。わかり合えないという現在地を確かめつつ、一方でその可能性を捨てない柔軟性も大切かと思います。ただ、大事なのは自分から動き出しすぎないことです。

ご参考まで。

~お礼のご返信~

回答ありがとうございました。

こんにちは。
今回もお忙しい中、私の相談文を前回のもとの合わせて読み込んでくださり、本当に感謝しています。
ありがとうございます。
毎回ながら釋悠水さまには、私自身でも気づかなかった、文章の間に見える本心に気づかせていただいた思いです。
私はまだギバーを一旦やめるということを実践できずに自分で苦しんでいたのですね。

たしかに私の夫、娘息子は本当の意味で私を気づかい心配してくれています。
ここが私の生きるべき場所なのですね。
今後は
①自分が辛いのを我慢してまで頑張りすぎない
②私の家族をいちばんに考える
これを心がモヤモヤした時にすぐに頭に浮かべるようにしたいと思います。

私の心に寄り添い、一緒に考えてくださったことがとても励みになりました。
ありがとうございました。

追記(悠水)
ご丁寧にご返信ありがとうございました。
お役に立てれば何よりです。
また、ご質問ありましたらお寄せ下さい。

釋悠水(管理者) 公開しました 2022年9月17日

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