私の生きてきた時間

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初めまして、こんにちは。
ハスノハでのご住職の回答を、毎回新しい目線に驚きながら読ませていただいています。

私は子供の頃から知らず知らずに母を可哀想だと思い込まされてきて、何事も無意識に母を喜ばせるために頑張ったような気がします。
その性格のせいか結婚してからも体の不自由のある義父や、判断力のない義母の役に立とうと孤軍奮闘を繰り返してきました。
孤独とツラさで病みました。
昨年義父が亡くなり、婚家では何事も終わったとばかりに他の家族は平穏になりましたが、一方実家でも父が急逝したので今度は母から依存の対応に明け暮れる生活が始まりました。

私はいつまでも人の面倒を見る緊張感や責任感に苛まれ続け、時々「何のために生きているんだろう…」と虚しくなります。
ギブアンドテイクのギバーになってしまい、テイカーの相手にばかりなってるのは疲れました。
心療内科にも20年近く世話になり、酷くはないばかりに主婦業を休むことなく生活していて、心が癒される時間は本当に少ないです。
時には誰かに思いきり優しくされたいし、愛に包まれたいと思いを持ち続けていても、どこにも見つかりません。

人それぞれ苦しみがあるのが生きるということとは分かってはいても、あまりにも苦しすぎると弱音を吐きたくなります。
私の人生はこのまま終わるのかと思うと虚しくなります。
今まで生きてきた時間は「徳を積んできた」と思わなければいけないのでしょうか。
その為に生きているのでしょうか。

少し楽になる考え方がございましたらご教授願いたいのですが…。
よろしくお願いします。

釋悠水(管理者) 質問回答 2022年8月27日

質問者さんからのご返信

釋悠水様
回答をいただきありがとうございました。
今の時点で母との関係に客観的な目で見ることができるようになったのは、ひとつ前進だと言っていただけたことは、私にとって苦しいながらも嬉しかったです。
気づいてしまってからは、過去を思い出して辛くなったり、この先母を変えることはできなさそうだと思っては悲観していましたが、自分の意識を変えることはできますもんね!
ギバーを一旦やめるということを心がけたいと思います。
罪悪感は伴いますが、『これは私がやらなければならないことなのか?』を常に意識しながら、少しずつ切り換えられるようにしたいです。

今回直接ご意見をいただけて、私も嬉しかったです。
ハスノハではお坊様を指名することはできず、少し感性の違う方からのご意見だとしっくりこないこともありました。
今後ともまた利用させていただくかもしれませんが、よろしくお願いします。

追記
ご返信ありがとうございました。
お役に立てれば何よりです。
しばらくは試行錯誤があるかもしれませんが、少しづつマイペースで日常をお送り井ただければと願っています。
どうぞ、また質問ありましたらお寄せ下さい。

釋悠水(管理者) 質問回答 2022年8月27日

こんにちは。ご質問いただき嬉しいです。

ご質問を拝見すると、まさに「孤軍奮闘」というその四文字にこれまでのご苦労がにじみ出ています。その一方ならぬ年月の積み重ねに思いを致すとともに、先ずはお疲れ様でしたとお声がけしたく思っております。

「ギバーになってしまい、テイカーの相手にばかりなってるのは疲れ」たと仰っています。おそらく、「ギバー」とか「テイカー」と表現できるようになってから、それほど年月が経っていないのでは、と勝手ながら想像します。二十代、三十代のころはもしかすると「何事も無意識に母を喜ばせ」ていたとのお言葉通り、「喜ばせる」のが当たり前で、それを「ギバー」とも表現できていなかったのでは、と思います。それが、今は一般的にフェアとされている「ギブアンドテイク」のルールに違っていることに気が付かれている。つまり、この親子関係はアンフェアな親子関係だと気がついたからこそ、不均衡な関係にため息が出るのでしょう。この気づきはご心情としては苦しいことでしょうが、ご自身の親子関係を客観的に見ることができるようになったという意味では前進です。

「時には誰かに思いきり優しくされたいし、愛に包まれたい」という「テイカー」になりたい。これはあなたの心の底からの叫びでしょう。この叫びを大切にすることが宜しいと思います。つまり、一旦まず「ギバー」となることを止めて、積極的に相手に何もしないことを前提に生活してみることです。それは、以下の2つの理由からです。

1・「ギブアンドテイク」は、ともすれば「ギブ」しなければ「テイク」がない、という考え方になります。では、「時には誰かに思いきり優しくされたいし、愛に包まれ」るのはあなたが必ず「ギブ」しなければ得られないことなのでしょうか。もしかしたら、何もしない自分が実は「優しくされ」ているし、「愛に包まれ」ているのかもしれない。それを見る心の余裕がなくて、焦燥感から「ギブ」しなければ、「ギブ」しなければともがく。実は「愛」があるのに、自らの前提の誤りによって「愛」を感じられていない。この可能性を日常において吟味する必要があります。

2・「優し」さ、「愛」は然るべき人にこそ求めるべきです。「無意識に母を喜ばせる」ということは、親孝行の観点から見れば一概に否定すべきものではありません(具体的なエピソードがないのでこの辺は判断が難しい)。しかし、「母から依存の対応に明け暮れる生活」という一節から伺うに、おそらくそれは従属的な親子関係を強いられた結果ではないかと想像します。「喜ばせる」、つまり母親中心の関係を維持するのが目的の関係であり、あなたの「喜ばせる」に対して母親の「優し」さ、「愛」はこれまで相応に与えられてこなかった(少なくともあなたは実感できていない)。だから、あなたはその心の渇きを「誰かに思いきり優しくされたいし、愛に包まれ」たいと今現在願うのだと思います。ただ、お母さんのご年齢を考えても、これまでの関係を見てもお母さんがご自身を省みて、「優し」さ、「愛」をあなたに差し向けることはほぼ期待できないと思います。なぜなら「優し」さ、「愛」そのもの、或いはこれらを相手に傾けるという手段自体を知らないからです。しかれば、ご主人を始めご友人などあなたの周辺に「優し」さ、「愛」を傾けてくれている人は居ないでしょうか。「徳を積んできた」と思い込む必要はありません。心が自然に思える、「優し」さ、「愛」を感じる心のしなやかさこそ必要なのではないかと思います(これには1の「ギバー」を一旦お休みにする必要があります)。

以上、簡単ではありますが私見を述べました。取捨選択はお任せします。

では、お体お大事にお過ごしください。

 

釋悠水(管理者) 質問のステータスを公開に変更 2022年8月25日

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